ああ……今日も働いたな。
座ったまま背伸びをすると、ぎぃ、と椅子が軋んだ。
まあ、今日はほぼデスクワークのみだったけどな。
頭脳労働はね……精神にくるんだよな。
定時を少しばかり過ぎ、そんな事務所には俺一人きり。
さて。さっさと帰って寝るか。
帰り道、歩きながら思う。
昔……どのくらい昔かなんて話は置いといて。
時間が有り余っていたころに比べたら、自分の時間はとても少なくなった。
朝起きて、支度をし、仕事に行き、帰ってくれば疲れていて、明日のために寝るだけ。
……昔はね。そりゃあ思い描いていたさ。
大人になったら、世界がすごく広がるんだって。
働くようになったら、やりたいことが全部できるようになるんだって。
でも、実際に大人になったら、そんなのは上手い事生きていける人間だけの特権だって気付いた。
いや、努力したらさ。俺だってきっとそうやって生きていけるだろうさ。
だけど、努力する気もない、そんな気力もない、生きているだけで精一杯の人間に。
どうやってそんな夢のような人生が送れるだろうか。
風に背を押されながら、一人道を歩く。
辺りは暗くなり、照らし出される街並みは奇麗で。
街に響くエンジン音は、フロントライトの指し示す方角へ歩む車たちの足音だ。
……こんな思考に意味はない。ただの暇つぶしだから。
この世の全て、ひとつひとつに意味なんてあるものか。
ただ生きるだけの毎日に、少しくらいの息抜きが欲しくて。
疲れた頭をさらに回し、心はさらに疲弊していく。
家に帰って、カップ麺をすすり、シャワーを浴びて寝る。
その程度の余力が残っていればいい。
少しだけ余裕があったら、音楽でも聴こうかな。
そうだ、先日レコーディングしたばかりの、みくの新曲がある。
かなりの出来栄えだと思う。やはり楽曲制作の依頼をするならあの人に限るな。
まあ、その分、報酬は高くつくが……
でもそれは、いつかみくをトップアイドルにするための必要経費だ。
……上から下りる予算を維持するためには、みくに頑張ってもらわなきゃな。
さて。帰宅すると、窓の向こうにキッチンの電気が付いているのが見える。
あれ、電気消し忘れたかな、なんて考えながら、玄関の鍵にパスコードを入れる。
ピッピッピッ……ピピピッ! いぃーん……かすっ。既に鍵が開いている音がする。
あれ? 鍵も閉め忘れたのか俺。
全く不用心なことだ。明日からは気を付けるか。
独り言ちながら、ドアを開けると、みくがキッチンで何やら料理を作っているようだ。
……????????????
「は?????」
「あ! Pチャンお帰り! 今ご飯作ってるから待っててね。あとお風呂洗っといたから、先にシャワーでも浴びるにゃ?」
「は????????」
「何よ、さっきからはぁはぁ言って。せっかくご飯作りに来てあげたのに」
「……玄関の鍵の番号教えたっけ?」
「うん。めっちゃ前に教えてもらったよ」
「そうか……そうかぁ」
「さ、突っ立ってないで、着替えるついでにシャワーでも浴びるにゃ」
「うん……うん?」
納得いかねえ。
なんでうちに居るのこの人。
今日はレッスン終わったら歩いて帰るとか言ってなかったか?
ああ……俺の部屋にね。帰ったのね。
なーに言ってんだこいつ。
それから、まあ一通りのことを終えて。
「はい、お茶どうぞ」
「ありがと……いやお前ほんと何で居るの?」
「え? だってPチャンさあ、最近忙しくてろくなもん食べてないでしょ?」
「うーん。バレている」
「だから、たまには栄養の取れるものを、と思ってやってきたにゃ。感謝するにゃあ」
「ほんとありがたいよ。いつもありがとうな」
「にゃふふふふ……どういたしまして!」
みくがこんな風に、うちに来るようになったのはいつからだろうか。
……なんだか。みくとまだ出会っていない頃、本当にずーっと昔から一緒にいるような気がする。
いや、流石にそれはないだろ。ないけど……本当に、最近はよくうちに来ていろいろやってくれる。
家事全般は任せきりだ。
いや? 毎日やってもらってるわけではないよ?
仕事をしていると掃除も洗濯もやる暇がなくて、大体放置しっぱなしになる。
そういうのを察知してなのか、家の事が溜まってくると、みくがふっとやってくるのだ。
「本当……いつも申し訳ない」
「いいよいいよ。好きでやってるからにゃ。その分Pチャンにはいつも還元してもらってるから。猫カフェ連れてってもらったりとか、アクセサリーだの服だの買ってもらったりとかさ」
「それでとんとんになるなら安いもんだな」
ずず、とお茶をすする。熱い。
「持ちつ持たれつ、人は支えあって生きているにゃ」
「そうね……」
「みくはPチャンが居なかったら、こうやって輝くこともなかったにゃ」
「そうか? 前の事務所にいるときだって割と活躍してたろ。当時、お前の話聞いたことあるよ、俺」
「え、本当にゃ?」
「おう。迷走しっぱなしのキャラ芸人ってな」
「じとー…………」
「まあまあ……そんな睨まないで……」
「むう……だってさあ、その時のプロデューサーが、猫キャラで行かせてくれなかったんだもん」
「まあ。手垢付きまくりの使い古された安易なキャラ付けだもんなあ。猫キャラって」
「ぐぅ。そんなに言うことないじゃん」
「客観的に見れば、事実はそういうもんだよ」
「それは分かってるけどさあ……」
「でも、俺はみくの『それでもそのキャラで挑戦してみたい』って意気込みを買ったんだよなあ。熱量に押された、というかね」
「ん……みくはね、Pチャンと初めて会ったときに『この人ならみくの話を聞いてくれるんじゃないか』って思ったの」
「ふーん。そうなの?」
「うん。そうなの」
会話が切れる。飲みかけのお茶はまだ熱い。
「そういうわけだから。Pチャンには、健康でいてほしいの。……Pチャンじゃないと、みくは輝けないんだもん」
「んあ? なんて?」
ぼそぼそと喋るせいで後半が聞き取れなかった。なんて?
「ん! いいの! せめて最低限はちゃんとした食生活心がけてよね!」
「だから昼はサラダとか食べてるじゃん……」
「前はサンドイッチとカップスープばっかりだったくせに、よく言うにゃ。どうせ朝はマヨトーストばっかり食べてるんでしょ」
「……たまにジャム塗ったりしてるし……卵焼きも食べてるし……」
「体にいいものを食べてるよ、とか言わないでね。説得力ないからにゃ」
ぷにぷにと腹をつつかれる。悔しい……
「そんな太ってないし……ダイエットしてるし……しようと思ってるし……」
「思うばかりでは痩せないにゃ。毎日の積み重ねが大事だよPチャン」
「みくはいいよなあ、何にもしなくてもスタイルいいもんなあ」
「……あのね。みくはちゃんとダンスとか歌とかのレッスン受けてるから。定期的に運動してるにゃ。ライブだってしてるし、重労働だよ?」
「うらやましい……」
「Pチャンもやる? めっちゃしごかれるよ?」
「それはちょっと……」
「それは冗談だけど。いきなりランニングは辛いだろうし、ウォーキングでもどう? 付き合うよ?」
「まあそれくらいなら……」
「後はほら、そこで埃かぶってるVR機材も活用するにゃ」
「そうね……本当にやりたいんだけど時間取れなくて……」
「疲れて帰ってきて、やれないのは分かるにゃ。だから休みの日に30分でもいいにゃ。まずは習慣付けることから始めるにゃー」
「そうだねえ……」
「それにプラスでたまに一時間でも二時間でもみくとウォーキングしたら完璧にゃ」
「……本当に付き合ってくれるのか?」
「もちろん、やる気があるならいくらでも。今度靴でも見に行く?」
「あ、なんかやる気出てきた。三日坊主のやる気が」
「やる前から飽きる話しないでくれるにゃ?」
ああだこうだ、なんだのかんだのと話に花が咲き、気が付けばもう遅い時間。
「うにゃ……もうこんな時間だ」
「ふむ、もうそんな時間か。早いな……じゃあ」
「じゃあシャワー借りるね」
「おう、送っていく……はい? なんて?」
「え? シャワー借りるって言ったんだけど? 今日泊まってくから」
「はい???」
「別にいいでしょ、今から歩いて帰りたくないし。Pチャンちに泊まるのも今に始まったことじゃないでしょ」
「いや……まあそうだけど……」
「いまさら何ごちゃごちゃ言うにゃ……そんなに嫌だったら最初の時にもっとがっつり拒否しておくべきだったにゃー」
「嫌じゃないけど……うーん……毎回言ってるけどさ……」
「はいはい終わり終わり。シャワー借りるよー」
そういえば、部屋の片隅にみくのリュックサックが置いてあることに今気が付いた。
こいつ……最初から泊まる気で来やがったな……
さらにそういえば。明日から週末じゃん。
今週末はライブの予定も仕事も入ってないし、完全に失念していた。
こりゃ泊まりに来るわ。
それからしばらくして。隣の部屋から、ごー、とドライヤーを使ってる音がする。
俺も着替えて歯磨きして……
「さて。もぞもぞ」
我先にと布団の中に潜っていくみく。
いや……俺のベッド……
「? Pチャンどったの? ほら、一人じゃ寒いにゃ」
布団をめくりながら手招きされている。
「……毎回言ってるけどね。それは倫理的にね?」
「ごちゃごちゃ言っても、結局毎回一緒にお布団に入るじゃん。早く電気消してにゃ」
「はい……」
なんだかんだ、俺だって布団で寝たい。
二人で寝るには狭いベッドだが、寄り添って寝ればまあ少しは余裕がある。
ぱちり、と電気を消して、もそもそと布団に入る。
「んにゃ」
みくが間髪入れずに抱きついてくる。柔らかい。
本当、慣れないな。びっくりして身体の一部が大きくなってしまう。
「Pチャンさあ。いつになったらおとなしくできるにゃ?」
「仕方ないでしょ生理現象なんだから……」
俺もみくを抱く。絡まるという方が正しいだろうか。
「抱き枕抱いて寝るときもこうなのにゃ?」
「そうだけど……」
「ふーん。あれにゃ? 人肌恋しいにゃ?」
「……」
「みくも分かるよ。大きいクッション抱いて寝ると安心してすぐ寝られるにゃ」
「へー……」
「いつからだろ……あ、Pチャンと一緒に寝るようになってからかにゃ?」
「知らんよそんなの……」
目を閉じる。五感をシャットダウンする。寝ることだけに集中する。
でも、触感だけは落としきれない。みくが、温かすぎるんだ。いろんな意味で。
「Pチャンさ、寝るときはいっつもぶっきらぼうになるよね」
「だって寝たいもの」
「……みくのことさ、もっと抱いてたいとか思わない?」
「……思う、つったらどうなんだよ、お前」
「ん? ……えへへ。嬉しいよ」
みくの顔は見えない。見ない。
どんな顔をしてるか分かるから。
そんな……そんな顔をされたら。
……単純に。困る。
「Pチャン?」
「ん?」
「おやすみ」
「ああ……おやすみ」
それを最後に、会話が終わる。
みくは身体を擦り付けてきて、それからすうっと力が抜ける。
……そんなに無防備な姿を晒さないでほしい。
俺が悪いやつだったらどうするつもりなのだろう、こいつは。
いや、分かっている。俺だから、こうしているのは。
それでも。こいつの心の中は分からない。
俺には少しだけ覗く力もある。覗いてみたいが、けれど絶対に覗けない。
だって……だって。
俺の思っているような、好意的なものが、みくの中のどこにもなかったらと思うと。
胸が張り裂ける。心がばらばらに引き裂かれる。
辛くて辛くて、とても悲しい。
すぅ、と息を吸うと、みくの甘い香りがする。
俺に抱きついているみくの片腕をほどき、指を絡めてみる。
みくは抵抗することなく、むしろ積極的に俺の指をこねてくる。
……どうなんだろう。これは。
こういうことを許してくれるだけ。それだけの関係。
それ以上になりたい、と……少しでも思ってしまうのは、どうなんだろう。
いいのだろうか。こんなに幼い少女に、恋心を抱くのは。
よくない。一般的には。
だけど、我慢できない。
みくはいつでも、俺の心の壁をひょいと乗り越えて、擦り寄ってくる。
みくとの距離の取り方が分からない。
距離の取り方を覚える前に、ふっと俺の側にいたから。
それ以上、どうしたらいいのか。俺には分からなかった。
みくと過ごすようになってから、俺の価値観はかなり変わったと思う。
みくならどう思うか、何が好きで何が嫌いで、どこまでなら頑張れるか。
そんな事を考えながら、一緒に仕事をしているうちに、プライベートでも過ごす時間が増えて。
そうしたら、みくはいつの間にか、ぬるりと俺の心の隙間に入り込んできていた。
知らない間に、俺の一番側に、みくがいた。
それだけは、本当に、確かなことだけど。
でも、それに、みくの優しさに付け込んで、手を出してしまうのは、間違っている。
……間違って、いるはずだ。
俺が考え事をしているうちに、みくの手からは力が抜けていた。
すぅ、すぅと、規則正しい寝息が聞こえてくる。
心地よい音色だ。
みくの声も、みくの足音も、みくから発される全ての音色が好きだ。
可愛くて、優しい、俺だけに向けられるあの音が、俺の心をぐちゃぐちゃにする。
みくのことを想うだけで、俺は……おれは……
知らないうちに、側にあった。
いつしか、それが当たり前になっていて、”側に在る”という言葉は姿を消していた。
最初はあんなに意識していたのに、慣れてしまえば、そんなものだ。
それは、心の中にある感情だって同じこと。
いつか、この恋心だって……消え失せる。
ただ失ってしまうのか。それとも別の感情に生まれ変わるのか。それは分からない。
それでも、今、俺のこの心の鼓動は、本物だから……
もう少しだけ、もう少しだけでいいから。
この甘い夢の中で、溺れていたい。
少しだけでいいから。できるならば、永遠にでも。
ずっと。ずうっと。このままで、いたい。
みくを、俺の腕の中に、閉じ込めておきたい。
俺の側で……永遠に。愛させて欲しい。
いつまでも……いつまでも。
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翌朝。目が覚めると、みくの温もりだけが布団の中にあった。
そういう事なのでもう一度目を瞑る。
「Pチャン……おーい起きろーバレてるにゃよー」
だめ……もう少し寝るんだから……
みくは非情である。寝ようとする俺の身体をゆっさゆっさと揺さぶっている。
仕方がないので、観念して起きることにした。ま、これもいつものことだ。
「はいはい、顔洗ってきてね。そしたらあったかいうちにご飯食べようね」
「はいよ」
本当、よくできた子だよ。
朝ご飯をほおばりながら、ぼそりと口から言葉が零れる。
「ん? なんか言った?」
「んん。将来いいお嫁さんになれるだろうなって」
「うん。そりゃあゆくゆくはいいお嫁さんになりたいから。これくらいできて当然にゃ」
「へえ。んじゃあもういい人とかいるの?」
何でそんなこと言っちゃうかなあ俺。
ヘビー級のストレートパンチが飛んで来たらどうするのさ。
「いや? まだいないけど?」
「あっそ。いいの? 俺なんかとおままごとしてて」
「いいの、将来見越しての予行演習なんだから」
「そうかー花嫁修業かー。みくが居なくなったら一人で生きていけるか心配だなあ俺は」
「んー? ずっと一緒にいてほしいにゃ?」
「まさか。冗談でも言えねえよ。お前に重荷を背負わせるわけにはいかないさ」
「ふーん。そういうとこ自分に厳しいよねPチャン」
「そう?」
「うん。もっと甘くてもいいと思うよ? ずっと側にいてほしいくらいの冗談とか、言っても罰は当たんないと思うけど」
「いやあ。俺なんかの側にいてもいい事ないよ絶対」
「それはPチャンの側にいる人が決めることでしょ。その人は好きで側にいるんだからさ」
「それはそうだけど。じゃあみくも好きで俺の側にいるのかい?」
「そういうこと。Pチャンが好きだから側にいるんだよ」
「それはありがたい。泣いてもいい?」
「いいよ別に。はいティッシュ」
受け取って、ちーんと鼻をかむ。
まあ。そんなのがみくとの日常だ。
これが、いつまでも続けば。
でも、そんなことはないと、俺が一番よくわかっている。
しかし、みくの言葉を真に受けるならば。
いつまでも続くかどうかは、みく次第、というわけだ。
……覗いて、みたい。
でも、それだけはできない。怖いから。
思う通りの結果が得られない可能性に、人は恐怖して、勝手に絶望する。
だからこそ、口ではそう言うけれど、決して行動には移せない。
でも。一縷の望みをかける覚悟さえあるならば……
「Pチャン」
「おわ。何?」
「今日はさ、靴見に行こうよ。運動靴」
「え。その話本気だったの?」
「えー。みくはいつでも本気にゃのにー」
「いや……俺の運動しなさ、わかるでしょ? 本気だと思わないじゃん」
「昨日はみくと一緒なら運動するって言ってたのにー」
「いや。運動するとは一言も言ってねえ。……はずだ」
「ほーん。ログ確認する?」
「回想機能なんてついてませんよ、ノベルゲームじゃあるまいし」
「まあまあ。みくもそろそろランニング用の靴を新調しようかなと思ってたとこだし。行こ?」
「はあ……仕方ないなあ……」
「やた! じゃあサクサクお片付けするにゃー」
「急がなくても時間はいっぱいあるから。気をつけなさいよ」
「急いだってお皿割ったりしないよ、Pチャンじゃないんだから」
「俺だって割ったことはないよ……たぶん」
キッチンへ消えていくみくを横目に、スマホアプリを起動する。
何の気なしに、デジタルカードを混ぜ、一枚めくる。
ペンタクルの5、逆位置。
失われた、あるいは持ち合わせていなかったモノを、これからゆっくり集めていくこと。
今の俺は、そう解釈する。
ならば。これから集めるモノとはなんだ?
失ったモノ、持っていなかったモノとはなんだ?
カードを眺めながら思う。だが、それ以上のことは、頭に浮かばない。
「Pチャン、着替えないの?」
「ん、今着替える」
「お髭もちゃんと剃ってよね」
「分かってますよ」
アプリを閉じて、タンスに手をかける。
価値あるモノ、その象徴たるペンタクル。
そして、その象徴の物語の転機となる、5番。
細かいことは抜きにして、そういうもんだとするんなら。
今、俺は、物語の転機にいる、ということになるのだろうか。
選択肢などどこにもないように見えるけれど、俺は何を選ぶのだろう。
何を選べば、俺は自分の望む、価値あるモノを手に入れられるのだろう。
まあ……それは。これから、おのずと分かっていくことだろう。
時が流れれば、何かを選ぶ時も来る。
その時に、ベストな選択肢を選べるように、努力しよう。
人生まだまだ、これからなんだから。
支度を終え、事務所に車を取りに行くために、みくと並んで歩く。
「あんまり天気よくないね?」
「もう少ししたら晴れるだろ。今日は晴れって言ってたからな」
「そっか。じゃあ今日は車使わないで、歩いていく?」
「ん? それでもいいけど……いいの? 疲れない?」
「いいよ。ウォーキングは大事だにゃ」
「うへ……やっぱり車使おうぜ車。よーし事務所いくぞー」
「はいはい。今日はいっぱい歩くにゃー」
「勘弁して……」
……今もね。そりゃあ思い描いている。
自分はまだまだ子供で、本当に大人になれば世界は広がるんだって。
でも、現実はそうじゃない。自分の手の届く範囲までしか広がらない。
自分が手を伸ばすかどうか、それで世界は広がっていくんだ。
じゃあさ。やりたいことは全部できるのか。
それはNOだ。やれることしかできない。
やる気がなきゃ始められないし、始めなければやる気は出ない。
だから、自分にやれることを少しずつやっていくんだ。
俺は……別に、狭い世界でいいと思う。
やりたいことも、やれなくったっていい。
極論を言ってしまえば、閉じた世界で構わない。
そこに、みくさえ居てくれれば、俺はそれで構わない。
大切な人が側に居てくれるなら。それ以上は望まない。
むしろ、それが最上の望みなのだから、それが一番だ。
結局この日は、車を取りに行かず、一日たっぷり歩かされることになる。
まあ、それもいいだろう。
大切な人と、大切なひと時を過ごす。
それは、紛れもなく、至福の時なのだから。